生きる意味が無い
意味自体が有る無いでいえばモノ的には無い
あくまで認識的な話だよな?
だから生きる意味を認識できる人もいればそうでない人もいると。
認識できる、言い方を変えれば
意味づけの得意、不得意って訳だ。
無意味と思いながら生きることと生きる意味をそもそも考えないは別物だ。
四六時中、生きる意味を考えてる訳では無い 暇なときくらいか
快/不快 単純だけどこの2つが行動原理で
意味より深い基礎な気がする
快感を覚えるものが所謂、生きる意味じゃないかな
一見、大変そう、苦しそうに見えるものも結局は快感に繋がってて、
思うにストレートな快感より回りくどい快感の方が文明的で、成熟した精神とされるんだろね
というか本能的な快感は集団ベースで見ると厄介で邪魔だから抑圧、非難されて
社会が個人に課す、遠回りで、義務的な快感はそりゃ社会的で利他的だから称賛されるんだね
つまりは味覚と似てるわけで
本来なら不味いニガいものを美味い美味い大人の味だと快感を覚えるよう自己改造されてくわけだね
生きる意味って他人に聞くとき、または他人に聞かれるとき
快/不快 を聞いてないよね
陸続きのはずの快/不快と有意味/無意味
いや有意味/無意味なんて存在より快/不快の方が根源にあるし先にある
快/不快の在り方が十人十色でそれへの意味づけも十人十色というわけでね
ここで問題なのは今2掛け2で4通り
快←有意味
快←無意味
不快←有意味
不快←無意味
快感を得ていてもそれが無意味ってことはあり得るかな オナニーしても無意味だなぁと賢者タイムになることを例示しとこう
そうなると快/不快よりも有意味/無意味の方が大層な意味での「生きる」においては支配的なように思える。
これが快と意味を別物と捉える一般論
俺が言ってたのは
意味/無意味は快/不快の変容した姿でしか無いってこと。いや別の名前を冠してるに過ぎない。
意味を求めるのは意味があることに安心するからだ。不快を回避してるだけだ。
という具合にぼくは
曖昧耐性がなくて、何事も白黒つけたくなるし
複雑性に耐えられない。
あらゆるものを単純化したくなる
これも不快からの回避だし
単純化できたときの快感が
動機