gekiokomukunaの日記

evil thiughtsが止まらない

言葉

『これがニーチェだ』で

言葉が通じ合うには

皆同じような体験をしてないと難しいって趣旨のニーチェの言葉が引用されてた

 

みんな同じ体験、似た体験を強いられて均質的で卑小な人間が出来上がると。

傑出した人間、独立した人間が生まれないと。

 

それはインターネットで更に加速したような。

社会や人生を、一般化、抽象化したり、皆の納得できる解釈を加えてみたりする。

そんな他者の規範のノイズが溢れかえってる。

 

確かに俯瞰した視点を持つことに役立つんだろうけど、

他人の物差しを頭の中に入れて

その物差しで自分の特殊で個々的な体験を測るのってどうなんだろうか。

 

体系化、一般化、言語化

 

筆舌に尽くしがたい己の体験を言語化する必要ってあるか?

 

例として不適切かもしれないけど

チョコレートは甘い

 

これが円滑に伝わるには皆がチョコレートを見て食べて、ちゃんと甘いチョコレートで

義務教育を受けてと

 

言葉でなく体験を共有している。

 

っていう体験の同質さ。

 

そして

チョコレートは甘いが円滑に伝わるのは

チョコレートを甘いと感じる味覚の持ち主の間だけだ。

 

つまり五感の同質さ。

 

思考の同質さ

 

言葉の伝わりやすさが体験、思考、意識の均一化を基盤にするなら

コミュニケーション史上主義は糞だろ。

 

 

コミュ力という言葉が広まった弊害

まずコミュ力というゴミ概念を多くの人間が脳みそにインプットした。

それに付随してみんな同じような感情・コンプレックス・モチベーションを持ち、行動や思考を始める。

コミュ力やコミュ障という言葉のパンデミック前を想像すると如何に自由に感じられるか。

 

言語化は実は精神的には良いことで、多くの語彙を持つことも同様。

 

多分、人間は言葉を介さずにはいられないほどに弱い。

 

私は言葉には毒にも薬にもなるものがあるような気がするけど、どうなんだろ。